拝殿 ●社殿
 生島足島神社−それは長野県では特別古くまた名高い神社です。東の方から朱色の鳥居をくぐり、左側の池に沿って参道を進みますと、神門をくぐって広場に出ます。左側に橋が二つかかっていますが、その手前の橋を渡ったつきあたりにあるりっぱな御殿が生島足島神社の拝殿で、北向きに建てられています。私たちは、まずこの拝殿の前で神様を拝みます。
 この拝殿の奥には、どんな神様がまつられているのでしょうか。それが生島神・足島神という二柱(神様を数えるときは、柱をつける)の神様で、それを続けて「生島足島神社」といっているわけですが、この二柱の神様は日本の国が出来はじめたころから、わが国を守ってきた神様といわれています皇居の中で、天皇がいつも拝まれている神様は23柱ありますが、その中にこの生島神も足島神も入っています。むかし「信濃の国造」という役人が、ここにいて信濃の国を治めていたといわれます。その国造がわざわざ宮中からお迎えしてきたのが、この二柱の神様であろうと考えられているわけです。今から約一千年も前(平安時代)に朝廷でつくった「延喜式」という書物がありますが、この中には全国の大切な神社が「大社」「小社」とわけけて記されています。信濃国では、諏訪郡の諏訪神社などとならんで、この生島足島神社が「大社」と書かれていますから、そんな頃から、この神社は信濃では、最も大切なお宮と考えられていたことがわかります。

生島足島神社本殿 ●御神体
 さて、生島足島神社にはもう一つとても大切なことがあります。それは、ふつう神社の御神体というものは、鏡とか玉とかが多く、これを一番奥の高いところに安置して拝んでいるのですが、生島足島神社の御神体はそういうものではありません。あのりっぱな拝殿の中に、「大社造り」といって、わが国で一番古いといわれる様式の宮殿が入っています。そしてその中は"まっくら闇"で何もありません。ないのがあたり前で、実は「地酒」−いいかえれば「土」が御神体なのです。
  これは「土」こそ稲や麦を生んでくれる最もありがたいもの、という古代の信仰をそのまま伝えているからです。古代の人々がほんとうに感謝したのはそういう「土」でした。それから稲を育ててくれる「水」であり、その「水」を出してくれる「山」でもありました。だからわが国で一ばん古い神社といわれる大和(奈良県)の三輪神社や、信濃の諏訪神社の御神体は「山」で、拝殿から直接「山」を拝むようになっています。後でも記しますが、塩田地方でも、前山の塩野神社の御神体は、はじめは「水」であり、本郷の諏訪神社(泥宮)の御神体は、稲を育ててくれる泥であったと思われます。
  生島足島神社は、御神体のことを考えても、古代信仰をそのまま伝えている大変古く貴重な存在であるといえましょう。また社殿のまわりは池で囲まれていますが、池の島のようなところに御殿があるのを「池心の宮」といって、わが国で最も古い建築と庭園の様式を伝えているといわれています。

起請文●武田信玄の願文(国指定重要文化財)
 生島足島神社は、このように古くりっぱな歴史のあるお宮でしたから、東信濃の信仰の中心として、多くの人々から尊敬されました。
 今から四百五十年ばかり前、甲斐(山梨県)に武田信玄という英雄が出て、甲斐はもちろん、信濃・駿河(静岡県)なども攻めましたが、とくに信濃は小さな勢力に分かれていましたので、ほとんど全部が信玄によって征服されてしまいました。東信濃で最後まで残ったのは塩田城でしたが、これも1553年(天文22年)に攻め落としてしまった信玄が、まず御礼参りをしたのは越後(新潟県)の上杉謙信と川中島で大決戦をしなくてはならぬようになったとき、信玄はこの神社に心をこめて戦勝のお祈りをしました。
信玄願状 ●起請文(国指定重要文化財)
 信玄は、信濃を大体自分の勢力の下においてしまったころ、たくさんの武将たちを生島足島神社に集めて、自分への忠誠を神前で誓わせました。
  集められた武将たちは、信濃はもちろん、信玄の本領である甲斐(山梨県)や、その支配下にあった西上州(群馬県西部)の主なものたちで、ずいぶん多くの数に上ったと想像されます。
 その武将たちが誓った文書(起請文という)が生島足島神社に83通残されています。牛王紙とい烏をたくさん刷りこんだ特別の紙に「決して信玄様にそむきません。もしそむいたらどんな神罰が当たってもかまいません。」という意味のことが書いてあります。名前の下に指の血で判が押してあるのがわかりますか。これを血判といい、起請文にはなくてはならないものなのです。名前に記した「信玄の願文」と、この「起請文」は、国の重要文化財に指定されています。